畠山重忠ロボットによる自身の略歴と博物館の紹介
展示室に入ると、センサーが反応して、重忠ロボットが語り始めます。重忠ロボットが語る自身の生涯と、展示室の紹介をお聞きください(2分)。
畠山重忠(はたけやま・しげただ)は、秩父平氏の系譜をひき、長寛2年(1164)に、武藏国男衾郡畠山(現在の埼玉県深谷市畠山)で生まれました。父は畠山重能(はたけやま・しげよし)、母は相模(現在の神奈川県)の三浦義明(みうら・よしあき)の娘といわれています。治承4年(1180)、源頼朝が石橋山に挙兵すると、重忠は、はじめ平氏方に属して出陣し、源氏に与した三浦氏を討ちました。その後まもなく、頼朝に仕えることになり、「鎌倉入り」では先陣を務め、「宇治川の合戦」(京都府宇治市)や「一の谷の合戦」(兵庫県神戸市)などで多くの手柄をたてました。義経追討の際には、頼朝に従い奥州平泉まで出陣しています。そして、頼朝の死後も幕府を支える主要な御家人(ごけにん)として活躍しましたが、幕府内部の勢力争いに巻き込まれ、元久2年(1205)6月22日、子の畠山重保(はたけやま・しげやす)の謀殺を知った後、二俣川(ふたまたがわ・神奈川県横浜市旭区)で非業の死を遂げました。
畠山重忠(はたけやま・しげただ)は、秩父平氏の系譜をひき、長寛2年(1164)に、武藏国男衾郡畠山(現在の埼玉県深谷市畠山)で生まれました。父は畠山重能(はたけやま・しげよし)、母は相模(現在の神奈川県)の三浦義明(みうら・よしあき)の娘といわれています。治承4年(1180)、源頼朝が石橋山に挙兵すると、重忠は、はじめ平氏方に属して出陣し、源氏に与した三浦氏を討ちました。その後まもなく、頼朝に仕えることになり、「鎌倉入り」では先陣を務め、「宇治川の合戦」(京都府宇治市)や「一の谷の合戦」(兵庫県神戸市)などで多くの手柄をたてました。義経追討の際には、頼朝に従い奥州平泉まで出陣しています。そして、頼朝の死後も幕府を支える主要な御家人(ごけにん)として活躍しましたが、幕府内部の勢力争いに巻き込まれ、元久2年(1205)6月22日、子の畠山重保(はたけやま・しげやす)の謀殺を知った後、二俣川(ふたまたがわ・神奈川県横浜市旭区)で非業の死を遂げました。
男衾三郎絵詞にみる武士の館とくらし
男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろう・えことば)は、武藏武士を題材にした絵巻物です。この物語は、武蔵国の武士・吉見二郎と男衾三郎という二人の兄弟に、二郎の娘を加えて展開され、武士の生活を絵画と文章で説話風に描いています(実在した人物の物語ではありません)。
この絵巻は、13世紀の末葉に成立したとされる中世物語絵巻の代表作の一つであり、武蔵武士の日ごろの生活のありさまや武士の館の構造などをよく表しています。このコーナーでは、男衾三郎絵詞のなかから、華やかな吉見二郎の邸宅の場面を複製により紹介しています。
なお兄弟の名字は、当時の武蔵国の地名からとっており、吉見は現在の比企郡吉見町一帯、男衾は大里郡寄居町一帯であったといわれています(男衾の地名は、現在、東武東上線の駅名に名残をとどめています)。
原資料は、東京国立博物館に収蔵されています。
菅谷館の主 畠山重忠
《畠山重忠の生涯と人柄》
畠山重忠は、秩父平氏の一族で、武藏国の畠山荘(現在の深谷市畠山)で生まれ、頼朝に従い平氏追討に尽力しました。
畠山重忠は、秩父平氏の一族で、武藏国の畠山荘(現在の深谷市畠山)で生まれ、頼朝に従い平氏追討に尽力しました。
文治5年(1189)の奥州藤原攻めでは、阿津賀志(あつかし)山(現在の福島県伊達郡国見町)の合戦で戦功をあげました。
元久2年(1205)、菅谷の館から鎌倉へ向かう途中、北条義時(よしとき)が率いる幕府軍と二俣川(ふたまたがわ)(現在の横浜市旭区)で戦い、壮絶な最期を遂げました。
重忠は、大力の持ち主として知られ、寺院建立の際には、礎石を一人で運んだなど多くの逸話を残しています。また、鶴岡八幡宮における静御前(しずかごぜん)の歌舞の際、銅拍子(どうびょうし)で伴奏しており、教養人としても知られています。
《主な展示資料》
◆(複製)源頼朝袖判(古文書)
文治5年(1189)8月、奥州征伐の際、頼朝が重忠あてに出した文書。制圧地における統治の心得を指示しています。原資料は、東京大学史料編纂所蔵の島津家文書です。
◆(模造品)銅拍子
文治2年(1186)4月、鶴岡八幡宮において静御前の歌舞の際に、重忠はこの楽器で伴奏したといわれています。
◆(写真)永福寺の大石
建久3年(1192)、永福寺建立の際、重忠がひとりで運んだと伝える庭石です。
◆(複製)重忠絵馬
重忠が力石を抱えている様を描く絵馬。力自慢の重忠にあやかって、男の子がたくましく成長するようにと祈願する際に用いられたといいます。原資料は、東京都江戸東京たてもの園(東京都小平市)に所蔵されています。
◆(複製)源頼朝袖判(古文書)
文治5年(1189)8月、奥州征伐の際、頼朝が重忠あてに出した文書。制圧地における統治の心得を指示しています。原資料は、東京大学史料編纂所蔵の島津家文書です。
◆(模造品)銅拍子
文治2年(1186)4月、鶴岡八幡宮において静御前の歌舞の際に、重忠はこの楽器で伴奏したといわれています。
◆(写真)永福寺の大石
建久3年(1192)、永福寺建立の際、重忠がひとりで運んだと伝える庭石です。
◆(複製)重忠絵馬
重忠が力石を抱えている様を描く絵馬。力自慢の重忠にあやかって、男の子がたくましく成長するようにと祈願する際に用いられたといいます。原資料は、東京都江戸東京たてもの園(東京都小平市)に所蔵されています。
◆(複製)伝畠山重忠墓
重忠の墓と伝える凝灰岩製の五輪塔です。重忠が生まれたとされる畠山館跡に残されているものです。
重忠の墓と伝える凝灰岩製の五輪塔です。重忠が生まれたとされる畠山館跡に残されているものです。
《畠山重忠ゆかりの地》
源頼朝に重く用いられた重忠の活躍ぶりは、『吾妻鏡』や『平家物語』などに記されており、その活動範囲は、広く全国に及んでいます。また、重忠にまつわる伝承や逸話が日本各地に遺されています。
秩父氏の本拠 嵐山町
菅谷館跡が所在するこの地域は、古くから「スガヤ」と呼ばれ、鎌倉街道上道と都幾川が交差する交通の要所として栄えました。
都幾川をはさんで菅谷の対岸の大蔵には、秩父重綱の子・重隆(しげたか)が帯刀先生(たてわきせんじょう)源義賢(みなもと・よしかた)を迎え入れた地と伝えられ、大蔵館(現在の大蔵神社の場所)がありました。
久寿2年(1155)には、この地で、義賢と甥の源義平(よしひら)との間で大蔵合戦があり、畠山重忠の父・重隆は義平側に加勢したといわれています。
菅谷館跡は、秩父平氏の系譜をひく畠山重忠(はたけやま・しげただ)が遅くとも文治3年(1187)11月までには館(やかた)を構えていた場所であり、元久2年(1205)の出陣もこの館からでした。館の周辺には秩父平氏に関係する遺跡があります。
平沢寺(へいたくじ)には、重忠の曾祖父(=3代前)の秩父重綱(しげつな)の名を刻んだ久安4年(1148)の年号のある経筒(きょうづつ)が発見されてます。このことから、秩父盆地を本拠とする秩父平氏の勢力がこの時期に当館付近にまで及んでいたことが伺えます。
《主な展示資料》
◆大蔵館跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
◆行司免遺跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
◆宮の裏遺跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
◆平沢寺(嵐山町平沢)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
◆平沢寺出土の鋳銅経筒【埼玉県指定文化財】
回転劇場 ~太平記絵巻にみる戦支度~
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の統一までの戦乱を描いた「太平記絵巻」のなかから4つの場面を取り上げ、武蔵武士の戦の様子を紹介しています。人形は動きませんが、4つの場面が演劇の舞台装置のように回転して変わります。また、音声で戦の様子を聞くことができます(全体で約3分)。
〈第1幕〉新田義貞の出陣
「太平記絵巻」第3巻 第12紙の場面です。
『太平記』の「巻十 新田義貞謀反事 付天狗催越後勢事」の箇所です。
〈第2幕〉両陣営のにらみ合い
「太平記絵巻」第7巻 第6紙の場面です。
〈第2幕〉両陣営のにらみ合い
「太平記絵巻」第7巻 第6紙の場面です。
『太平記』の「巻二十 黒丸城初度軍事 付足羽度々軍事」の箇所です。
越前国足羽川の北にある安居(はこ)の渡しで、川を挟んでのにらみ合いを再現しています。
〈第3幕〉先陣争い
「太平記絵巻」第7巻 第4紙の場面です。
越前国足羽川の北にある安居(はこ)の渡しで、川を挟んでのにらみ合いを再現しています。
〈第3幕〉先陣争い
「太平記絵巻」第7巻 第4紙の場面です。
『太平記』の「第十九 奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事」の箇所です。
利根川における先陣争いの場面を再現しています。
〈第4幕〉青野原の戦い
「太平記絵巻」第7巻 第5紙の場面。
利根川における先陣争いの場面を再現しています。
〈第4幕〉青野原の戦い
「太平記絵巻」第7巻 第5紙の場面。
『太平記』の「第十九 青野原軍事 付嚢沙背水事」の箇所です。
青野原は美濃国にあり、暦応元年(1338)の出来事です。
青野原は美濃国にあり、暦応元年(1338)の出来事です。
国指定史跡 比企城館跡群ー菅谷館跡・杉山城跡・小倉城跡・松山城跡
1 菅谷館(城)跡 所在地:比企郡嵐山町菅谷
菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が居住していたと伝えられています。しかし、館跡内の一部しか発掘調査を行っていないため、重忠時代の遺構は現在のところ確認されていません。現在見られる土塁や堀などは、戦国時代の遺構です。
都幾川の河岸段丘崖とこれに注ぐ小河川の2つの渓谷を取り込んで、5つの郭(くるわ)を配した広大な平城を築いています。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏が争った長享年中の大乱(1487~1505)の際に、使われた城郭と考えられています。
2 杉山城跡 所在地:比企郡嵐山町杉山
杉山城跡は、鎌倉街道上道(かみつみち)を見下ろす丘陵上に築かれています。傾斜の急な切岸(きりぎし)、大規模な横堀と連続する折れ、複合的な虎口(こぐち)の形態など、高度な築城技術を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作と高い評価を得ています。
これまでは、後北条氏の城と見られてきましたが、発掘調査の結果、15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長享年中の大乱の後、山内(やまのうち)上杉氏が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に対抗するために築いた城であったと考えられるようになりました。
菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が居住していたと伝えられています。しかし、館跡内の一部しか発掘調査を行っていないため、重忠時代の遺構は現在のところ確認されていません。現在見られる土塁や堀などは、戦国時代の遺構です。
都幾川の河岸段丘崖とこれに注ぐ小河川の2つの渓谷を取り込んで、5つの郭(くるわ)を配した広大な平城を築いています。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏が争った長享年中の大乱(1487~1505)の際に、使われた城郭と考えられています。
2 杉山城跡 所在地:比企郡嵐山町杉山
杉山城跡は、鎌倉街道上道(かみつみち)を見下ろす丘陵上に築かれています。傾斜の急な切岸(きりぎし)、大規模な横堀と連続する折れ、複合的な虎口(こぐち)の形態など、高度な築城技術を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作と高い評価を得ています。
これまでは、後北条氏の城と見られてきましたが、発掘調査の結果、15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長享年中の大乱の後、山内(やまのうち)上杉氏が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に対抗するために築いた城であったと考えられるようになりました。
3 小倉城跡 所在地:比企郡ときがわ町田黒
小倉城跡は、槻(つき)川の蛇行点に張り出す丘陵上に築かれた山城です。城主は、後北条氏の重臣であった遠山氏とする説、大河原谷を支配した上田氏とする説があります。
小倉城は発掘調査の結果、16世紀代には築城され、16世紀後半以降は八王子城と鉢形城とを結ぶ重要拠点になったものと考えられます。
この城の最大の特徴は、戦国時代の関東の城には珍しい石積を随所に築いていることです。
4 松山城跡 所在地:比企郡吉見町北吉見
松山城跡は、比企丘陵に築かれた北武藏地方で屈指の平山城です。15世紀中頃から後半に、古河公方足利氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏による軍事的緊張のなかで築城されたと考えられ、16世紀には、後北条氏と関東管領(かんれい)上杉氏・越後長尾氏(上杉謙信)との間で争われた松山合戦舞台となりました。永禄6年(1563)以降、後北条氏の支城となり、上田氏が城主となりました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城しました。
小倉城跡は、槻(つき)川の蛇行点に張り出す丘陵上に築かれた山城です。城主は、後北条氏の重臣であった遠山氏とする説、大河原谷を支配した上田氏とする説があります。
小倉城は発掘調査の結果、16世紀代には築城され、16世紀後半以降は八王子城と鉢形城とを結ぶ重要拠点になったものと考えられます。
この城の最大の特徴は、戦国時代の関東の城には珍しい石積を随所に築いていることです。
4 松山城跡 所在地:比企郡吉見町北吉見
松山城跡は、比企丘陵に築かれた北武藏地方で屈指の平山城です。15世紀中頃から後半に、古河公方足利氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏による軍事的緊張のなかで築城されたと考えられ、16世紀には、後北条氏と関東管領(かんれい)上杉氏・越後長尾氏(上杉謙信)との間で争われた松山合戦舞台となりました。永禄6年(1563)以降、後北条氏の支城となり、上田氏が城主となりました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城しました。
スポット展示「中世のものづくり1」
平成29年2月24日(金)~8月20日(日) 終了しました
発掘調査によって発見された鋳物師の遺跡を紹介しています。
紹介する遺跡は、金平遺跡(嵐山町)、深沢遺跡(嵐山町)、金井遺跡B区(坂戸市)です。いづれも仏具や生活用品などを鋳造していた、大変興味深い遺跡です。
発掘調査によって発見された鋳物師の遺跡を紹介しています。
紹介する遺跡は、金平遺跡(嵐山町)、深沢遺跡(嵐山町)、金井遺跡B区(坂戸市)です。いづれも仏具や生活用品などを鋳造していた、大変興味深い遺跡です。
供養と埋葬
中世には、板碑(いたび)、五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの造塔供養がさかんに行われました。造塔供養とは、死者の極楽浄土への往生、または自身の死後の安楽を願うために、石塔を造立する行為です。
板碑は現在、埼玉県内で30,000基近く確認され、その数は全国一を誇ります。また、長瀞町(ながとろまち)野上下郷(のがみしもごう)と、小川町下里(しもざと)には、板碑石材である緑泥石片岩の採掘跡があります。切り出した石は、主に河川を使って運びだされたと考えられます。
中世の墓地跡から出土した板碑は、行田市築道下(ちくみちした)遺跡のように、火葬骨を納めた容器に接して建てられているので、死者の供養のためのものと考えられます。
板碑は現在、埼玉県内で30,000基近く確認され、その数は全国一を誇ります。また、長瀞町(ながとろまち)野上下郷(のがみしもごう)と、小川町下里(しもざと)には、板碑石材である緑泥石片岩の採掘跡があります。切り出した石は、主に河川を使って運びだされたと考えられます。
中世の墓地跡から出土した板碑は、行田市築道下(ちくみちした)遺跡のように、火葬骨を納めた容器に接して建てられているので、死者の供養のためのものと考えられます。
《展示資料》
◆ 板碑
(1)行田市築道下遺跡出土板碑
・ 嘉暦三(1328)年銘阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 埼玉県教育委員会蔵
・ 古瀬戸壺(14世紀前葉) 埼玉県教育委員会蔵
上記の板碑の下から発見されたものです。黄褐色の釉(ゆう)のかかる古瀬戸灰釉瓶子(へいし)で、菊花の印花文を施しています。蔵骨器としては高級品に属するもので、骨を入れるには細すぎるためか口縁部を打ち欠いています。
・ 貞和二年(1346)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 埼玉県教育委員会蔵・ 貞和二年(1346)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 埼玉県教育委員会蔵
上の板碑と双碑になる板碑で、本尊の下には、梵字で大日如来三尊真言のうち法身真言を刻んでいます。
(2)新発見の初期図像板碑
・ 年不詳阿弥陀三尊陽刻図像板碑 鎌倉時代 東松山市個人蔵
(3)東松山市正法寺境内出土板碑
・ 応安八年(1375)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 正法寺蔵
塔身に金剛般若経の偈頌(げじゅ)を刻む板碑
・ 応安八年(1375)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 正法寺蔵
塔身に法華経化城喩品の偈頌(げじゅ)を刻む板碑
上記の板碑と一対で造られたものです。