■ 博物館周辺の文化財
1.平沢寺(へいたくじ) 所在地:比企郡嵐山町平沢
2.大蔵館跡(おおくらやかたあと) 所在地:比企郡嵐山町大蔵
3.鎌形八幡神社(かまがたはちまんじんじゃ) 所在地:比企郡嵐山町鎌形
4.班渓寺(はんけいじ) 所在地:比企郡嵐山町鎌形
平沢寺(へいたくじ)
県指定有形文化財 鋳銅経筒(ちゅうどうきょうづつ)
県選定重要遺跡 旧平沢寺跡
所在地:嵐山町平沢字入977ほか
案内:
成覺山實相院(しょうがくさんじっそういん)と称する天台宗の寺院で、かつては広大な寺域をもつ「七堂伽藍」(しちどうがらん)の大寺院であったと伝えられています。創建については不明ですが、中世のほぼ全期をカバーする長い時代におよぶものと考えられています。寺宝として大切に保管されてきた鋳銅経筒には久安4年(1148)銘があり、「平茲縄(たいらのしげつな)」の名が見られることから、この経筒が平沢寺の最古の歴史を伝えるとともに、畠山重忠の曾祖父である秩父重綱と平沢寺との密接な関係を物語っています。また、町の発掘調査により12世紀末から13世紀初頭には方三間の礎石跡が発見され、東日本でも最大規模の阿弥陀堂があったことが確認されています。
見所:
県の文化財にも指定される鋳銅経筒は、現在、当館(埼玉県立嵐山史跡の博物館)の常設展示室で見ることができます。往時は、36の僧坊があったとされ、うち22の僧坊名が現在まで伝えられています。
参考文献:
「戦い・祈り・人々の暮らし」嵐山町博物誌第五巻[嵐山町の中世] 1997年
国道254号線バイパス消防分署入口交差点から南西へ約2km
大蔵館跡(おおくらやかたあと)
指定文化財の種別・名称:県指定史跡・大蔵館跡
案内:
中世の館跡といわれ、源義賢が仁平3(1153)~久寿2(1155)年の2年間住んだという伝承がある。
源義賢とは、平安時代後期の清和源氏に連なる豪族で、のちの木曽義仲の父。天皇家の警護役の長官だっことから帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれていた。嵐山町の大蔵に居をかまえたが、久寿2(1155)年の「大蔵の戦い」で、甥(おい)の悪源太義平に攻められて戦死した。館跡は簡単な土塁と堀で方形に取り囲んだ単郭式方形館(たんかくしきほうけいかん)と推定され、その規模は東西170m、南北215mに及ぶ。ところが近年の発掘調査によって、源義賢からさらに150年後の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての館跡であることが判明した。この館の主はいったい誰だったのか。そして義賢の館はどこだったのか。
見所:
現在の大蔵神社境内の区域が史跡になっているが、それは館跡全体の約1/4の範囲にすぎない。神社境内は周囲より1段高くなり、土塁と堀が見られる。この場所から東側の県道沿いに1カ所、他にもう2カ所で土塁を見ることができる。神社北側には物見櫓と推定される高見倉と呼ばれる塚状の盛土があるが、私有地のため、無断立ち入りは慎みたい。
アクセス:
県道172号(大野東松山線)+交差点から西へ約30m、県道沿い大蔵神社
菅谷館跡からの距離・時間:車で約10分、徒歩で約40分。
鎌形八幡神社(かまがたはちまんじんじゃ)
案内:
奈良時代の創建と伝え、拝殿に覆われた本殿は、室町時代の様式をいまに伝える。境内には木曽義仲産湯の清水と伝えられる泉がある。
見所:
木曽義仲産湯の清水と伝えられる泉は現在でも水が湧き出ている。また、本殿正面の彫刻は江戸時代のものと伝えられる。
参考文献:
「戦い・祈り・人々の暮らし」嵐山町博物誌第五巻[嵐山町の中世] 1997年刊行
県道173号線宗信寺向かいを東に約300m。
その他: 境内入り口に駐車スペースあり。
所在地: 嵐山町大字鎌形1907
案内:
木曽義仲の妻で清水冠者義高の母である山吹姫の創建と伝えられる。山吹姫は、木曽義仲が平家追討の兵を挙げたとき、義仲に従って上洛したと「平家物語」に記されている。境内には山吹姫の墓と伝える五輪塔がある。
アクセス:
県道玉川熊谷線 宗信寺前の交差点より南へ約2km
菅谷館跡からの距離・時間:車で約20分
笛吹峠(ふえふきとうげ)
指定文化財の種別・名称:町指定史跡 笛吹峠
所在地:嵐山町大字将軍沢
案内:
鳩山町須恵と嵐山町将軍沢との間にある標高90mの峠で、鎌倉から上野(現在の群馬県)に通じる「鎌倉街道」上道(かみつみち)の要衝にあたり、多くの武士が行き来した。「太平記」によれば、時は南北朝時代にあたる正平7年(1352)2月28日に、宗良親王を奉じた新田義宗は、この峠に陣を敷き足利尊氏と対戦し敗れた。この時、宗良親王が月明かりの中で笛を吹いたことから峠の名が付いたといわれている。
見所:
現地はとくに展望もなく、往時を忍ばせる遺構はなにもないが、峠から将軍沢の集落に向かう道の途中で道路状遺構を見ることができる。現道に沿って縦割状に幅広の溝が続いていて、これが鎌倉街道の遺構ではないかと考えられている。
参考文献:
案内板:あり 説明板:あり
その他:駐車場、トイレあり。