畠山重忠ゆかりの地

 

1)埼玉県内
 
畠山館跡(埼玉県深谷市)
長寛2年(1164)、重忠が誕生した場所と伝えられる館跡です。重忠の墓と伝える凝灰岩製の五輪塔【県指定】のほか、5基の五輪塔が残されています。『新編武蔵風土記稿』には土塁や井戸が遺ることが記載され、現在も重忠の産湯の井戸と伝えるものがあります。館跡内には、一の谷合戦の際、鵯越(ひよどりごえ)で愛馬を担いで下った伝説に基づいた銅製の像があります。また、重忠を詠んだ松尾芭蕉の句碑「むかしきけ 秩父殿さえ すまふ(=相撲)とり」もあります。

福寺
(埼玉県深谷市)
畠山館跡から北東500mに位置します。平安時代の開基で、重忠が寿永年間に再興し、自らの菩提寺としたと伝えられています。現在の建物は江戸時代以降のものです。

椋神社
(埼玉県深谷市)
満福寺の北に位置します。畠山氏が秩父からこの地に進出した際、秩父市にある椋(むく)神社(式内社)を勧請したといいます。

平沢寺
(埼玉県嵐山町)
境内から、重忠の曾祖父(3代前)の秩父重綱が埋納した、久安4年(1148)の年号が刻まれた経筒が江戸時代に発見されています。
 
菅谷館跡(埼玉県嵐山町)
重忠は、文治3年(1187)11月までには畠山館から移り、国元の邸宅とした館跡です。鎌倉街道に近く、交通の便のよい当地に進出したと推察されます。現在残る館跡の範囲は、戦国時代に拡大整備された後のものです。館跡内には重忠の立像が立っています。

慈光寺(埼玉県ときがわ町)
文治5年(1189)6月、奥州征伐の際、頼朝が戦勝祈願を依頼した天台宗の寺院です。重忠も信心を寄せたといいます。重忠が奉納する梵鐘を担いで山道の参道を登ったという伝説が残されています。寺僧の最高職には、重忠の伯父であった厳耀や、重忠の子の重慶・円耀兄弟の名前もみられ、畠山一族と深い関わりのあったことが知られています。

(2)関東地方
 
重忠邸跡 (神奈川県鎌倉市)
鎌倉の邸宅(鎌倉幕府成立後、公務で鎌倉務
めの際
に居住した場所)です。

御嶽神社(東京都青梅市)
重忠が奉納したと伝える赤糸威大鎧【国宝】・鐙や太刀が伝世します。境内にはアルミ製の重忠騎馬像があります。

二俣川古戦場・首塚(神奈川県横浜市旭区)
別名、万騎ヶ原古戦場ともいわれ、元久2年(1205)に重忠が討たれた場所です。現在は擁壁され当時の面影はありませんが、「畠山重忠公の碑」が建っています。周辺には、「鎧の渡し」や「首洗い井戸」があり、「重忠首塚」には石塔があります。薬王院の境内には、重忠の最期に従った一族郎党134騎を埋葬したと伝える6つの塚「六ッ塚」があります。「駕籠塚」は重忠の内室「菊の前」が自害した場所といわれ、駕籠こど埋葬したと伝えられています
 
神奈川県横浜市金沢区・釜利谷地区
この地は重忠の領地であったと伝えられ、重忠開基といわれる東光禅寺には供養塔と重忠愛用のものと伝える馬具が遺されています。対岸の六郎谷には嫡男の六郎重保墓と伝える五輪塔があります。禅林寺では毎年供養が行
われています。
 
3)その他

宇治川古戦場(京都市宇治市)
元暦元年(1184)1月、源義経に従い木曽義仲の軍と戦った場所です。濁流渦巻く宇治川を渡る際、重忠が馬から下り徒歩で渡っている時、流されていた烏帽子(えぼし)子の大串重親をつかまえ対岸に投げたといわれています。また、義仲の家子の長瀬重綱を馬から引き落とし、首をねじ切ったと伝えられます。

一の谷古戦場(兵庫県神戸市)
元暦元年(1184)2月、平氏追討のため、一の谷まで進軍した義経が、平氏の陣営を背後から攻めるために鵯越(ひよどり)越えを逆落としし急襲しました。このとき重忠が愛馬をいたわるため背負って急峻な崖を下りたという伝承があります。ただし今日では史実ではないこと明らかにされています
。この戦いで重忠の郎党の本田近常が平重盛の末子師盛を討ち取ったといわれています。

屋島古戦場(香川県高松市)
文治元年(1185)2月、義経に従い、平氏を討伐した場所です。

阿津賀志山防塁(福島県国見町)
文治5年(1189)8月、奥州合戦のおり、阿津賀山の要害の戦闘に先立つ夜、重忠が従者に用意しておいた
鋤鍬を使わせ、また軍夫80人に土や石を運ばせて、防御線の堀を埋めたといわれる場所です。

中尊寺金色堂(岩手県平泉町)
 文治5年(1189)8月、奥州合戦に際し、頼朝に従い、平泉に遠征。

宮城県岩出山町内
文治5年(1189)9月、奥州合戦の恩賞としてこの地を所領として賜り、葛岡城を築き、弟の重宗を移住させた場所です。

富山県細入村楡原
重忠の墓と伝わる五輪塔が残っており、毎年7月22日に五色の旗を立て菩提を弔っています。