2 菅谷館跡の構造

 (1)遺構概観 

 

菅谷館跡は、台地の縁辺部に複数の郭を配して築かれた平城です。高い土塁と深い堀に囲まれ、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭(郭の名称は仮称です)の5つの部分に分けることができます。これらの郭は、本郭から二ノ郭と南郭全域が、二ノ郭から三ノ郭と西ノ郭全域が見渡せ、たえず外の郭の状況を掌握できるように配置されています。郭内部にあったと考えられるいろいろな建物や井戸などはすべて地表下に埋没しており、現在、広い芝生や花木類の林となっています。 

 

 残されている土塁には、戦国時代になってから出現する防備上の重要な施設のひとつと考えられている「折」や「出枡形土塁」が要所要所に設けられています。 

 

 堀はすべて空堀であったと考えられますが、館跡内の地下水位が高く、また、湧水点以下まで掘り込まれているため、一部が水堀あるいは泥田状の堀となっています。ただ、館跡の東と西にある堀は、自然の谷を利用したものと見なされます。 

 

(2)城郭の縄張り 

 

ア 本郭 

 

 本郭は、四方を深い堀と土塁に囲まれ、小口も他の郭に比べて狭く、容易に郭内へ侵入できないように工夫されています。 

 

 郭は、東西150メートル、南北約60メートルの長方形の郭です。地元の伝承では、ここに畠山重忠の館があったといわれていますが、発掘調査を行っていないため確かなことはわかっていません  

 

      

 

イ 二ノ郭 

 

 二ノ郭は、館跡の中央部分に当たり、東西約250メートル、2050メートルの細長い形の郭です。土塁は、高く、幅広で、「折」が3か所みられますが、一部の土塁が削平され、現在、芝生となっています。また、ここには便所や水飲場、ベンチや休憩舎があり、見学者の便に供しています。 

 

 三ノ郭から二ノ郭へ至る道筋は2通りあり、展示館の南側から帯郭を通って二ノ郭の東側から入る道筋と二ノ郭の中央付近から枡形の「馬出し」(戦国時代の終り頃から設けられ始めた)を通る道筋があります。この小口には横矢掛りの施設が設けられており、本館跡内で一番厳重な小口となっています。 

 
      
 
 

ウ 三ノ郭 

 

 三ノ郭は東西約260メートル、南北130メートルの長方形の郭で、館跡内で一番広い郭です。発掘調査の結果、建物跡や井戸跡などが見つかり、その一部を本館南側の芝生の中に復原標示してあります。この郭は、二ノ郭へ至る重要な郭のため、「折」や「出枡形土塁」などを多用して、防備を厳重にしています。 

 

 三ノ郭には搦手門跡と伝えられる往時の裏口に当る小口がありました。現在では、菅谷館跡及び博物館の表の入口として利用されています。国道254号線のバイパスから搦手口へさしかかると登り坂となっています。これは坂小口といい、城への侵入を困難にさせるための施設です。 

 

 搦手口を抜けると広い駐車場があり、博物館の建物が見えます。 

 

 駐車場の脇に案内板が建てられていて、この館跡の構造を一目で知ることができます。

 

      

 

 

エ 西ノ郭 

 

  西ノ郭は、館跡の北西部分に当り、本郭から一番離れています。ここには大手門跡と伝えられる小口があり、往時は城の玄関に当る場所であったと考えられています。郭は東西約130メートル、南北約70メートルの長方形をしており、北から南にかけてゆるやかに傾斜しています。 

 

 大手門跡を通り西ノ郭をぬけ、正拈門(しょうてんもん)前の復元木橋を渡ると三ノ郭です。 









 




オ 南郭 

 

 南郭は本郭より一段低い位置に設けられた腰郭で、東西約110メートル、南北約30メートルの長方形をした小さな郭です。この郭は都幾川の崖上にあり、河川から直接、本郭へ侵入できないようにするために設けられた郭です。 













 

* 以上の縄張りの名称は、明治時代以降に付されたもので、中世にどのような名称で呼称されていたのかは不明です。 

 


(3)城郭の構造 

 

ア 土塁と堀(空堀) 

  土塁(土居ともいう)にはその築き方から、敲き土塁(異質の土をたたきながら交互に積み重ねて固めた土塁)と芝土塁(芝を重ねて土塁にしたもの)があります。本館跡の土塁は発掘調査の結果、敲き土塁であることがわかりました。土塁の大きさは場所によって異なりますが、おおむね2通りに分けられます。人の力によって掘り下げた堀に接している土塁は高さ約5メートル、上幅約4.5メートル、敷(基底幅)約15メートルで、自然の谷を利用した堀に接している土塁は、高さ2~3メートル、上幅2.5メートル、敷11メートルと前者に比べてやや小さくなっています。 

 

  

 

 土塁には、防備上いろいろな工夫が設けられています。「折」(土塁を直角に曲げたり、屏風のように折り曲げた土塁)や「出枡形土塁」(土塁を外に張り出させたもの)があり、横矢掛り(敵の進行方向の側面から射撃を加える手段)のための施設です。 

 

 堀には、水の無い空堀、水のある水堀、やわらかい泥土の堀である泥田堀があります。発掘調査の結果、菅谷城は空堀と泥田堀の2通りを使っていたことが確認されています。堀の断面の形は箱薬研堀と考えられ、その規模は上幅約12メートル、下幅約3メートル、深さ5メートルほどでした。 

 

 土塁から堀にかけての法(傾斜)は4550度もあり、非常に攻めにくくなっています。 


イ 虎口

    

    西ノ郭と三ノ郭の間にかかる木橋(復元)                   蔀土塁

 

 城の出入口を古くは小口と呼称されていましたが、後に「虎口」と書くようになりました。 

 

 小口とは小さい口という意味で、いざという時は封鎖することを目的としており、できるだけ幅は狭いものがつくられています。また、小口には敵の侵入を困難にさせるため、さまざまな工夫がなされています。たとえば、搦手門跡は左右の土塁が約3メートル喰違い(喰違い小口)、外から内部を見えにくくし、土橋は盛土して傾斜をつけて(坂小口)敵の侵入が困難になるようにしています。また、正拈門跡は、三ノ郭の出入口で、西ノ郭より約1メートル高く盛土して木橋に傾斜をつけ、さらに門内に目かくしのため蔀(しとみ)土塁を設けて郭内を見通せないように工夫しています。 

 

  

ウ 建物跡と井戸跡 

 建物跡は、掘立柱の建物で桁行7間、梁間4間(15×7.2メートル)の大きな建物から桁行3間、梁間2間(6×2.5メートル)の小さなものまであり、現在、本館の前に丸太を建てて建物があったことを標示しています。この建物跡は、柱と柱の間隔の長さや、出土した遺物から江戸時代のものと推察されます。 

 

 井戸跡は、深さ23メートルの素掘りの井戸で、発掘中も常時水が湧いていました。  

 

 井戸内からは板石塔婆が出土し、そのうちの1基は文字の部分に金泥を入れたもので、現在展示館に陳列しています。 

 

 その他、土器や陶磁器が出土しています。