企画展 東山道と「鎌倉街道」 学芸員ブログ
~古代の道は「鎌倉街道」に受け継がれ、そして「古道」になった~
第6回(最終回) 古道と呼ばれた「鎌倉街道」(R8.2.26)
企画展 東山道と「鎌倉街道」は、3章立ての構成です。第Ⅰ章で東山道と古代道路、第Ⅱ章で「鎌倉街道」、そして第Ⅲ章では、近世になって、「鎌倉街道」が古道として伝承されていく様子を紹介しています。
ブログの最後に紹介するのは、第Ⅲ章の展示資料、赤沼村秣場争論裁許絵図(あかぬまむらまぐさばそうろんさいきょえず)です。秣場(まぐさば)とは、牛馬の飼料となる草を刈り取る土地のことで、当時村の周辺には、家畜の飼料や薪、田畑の肥料などを調達できる入会地(いりあいち)があり、近隣の村が共同で管理していました。ところが、江戸時代に新田開発が進むとこうした土地が減少し、入会権をめぐって村どうしの争いが起こりました。このような争いを秣場争論と呼んでいます。
ブログの最後に紹介するのは、第Ⅲ章の展示資料、赤沼村秣場争論裁許絵図(あかぬまむらまぐさばそうろんさいきょえず)です。秣場(まぐさば)とは、牛馬の飼料となる草を刈り取る土地のことで、当時村の周辺には、家畜の飼料や薪、田畑の肥料などを調達できる入会地(いりあいち)があり、近隣の村が共同で管理していました。ところが、江戸時代に新田開発が進むとこうした土地が減少し、入会権をめぐって村どうしの争いが起こりました。このような争いを秣場争論と呼んでいます。
赤沼村秣場争論裁許絵図(鳩山町教育委員会提供)
資料は寛文5年(1665)に、赤沼原(現在の鳩山町赤沼)で起きた秣場争論に対して、幕府の評定所が裁定を下した際の絵図で、秣場の境界線を定め、争論に関わった村々を記しています。この絵図には越辺川(おっぺがわ)をはさんだ南北の地域である現在の鳩山町赤沼から毛呂山町北部・坂戸市西部にかけて描かれていて、近世初期の街道と村の位置がわかります。実はこの絵図は、「かまくらかいどう」の記載がある最も古い絵図とされているのです。
拡大部分
「古道鎌倉開道」
絵図には当時の街道が朱線で描かれています。赤沼原からおごせ川(現在の越辺川)を渡って南に延びる道がかつての「鎌倉街道」上道(かみつみち)とみられますが、この絵図には「八王子街道」と記され、東側に新しく道が付け替わっています。そして残った通りには「古道鎌倉開道」と記されているのです。川を渡ってから大類村(おおるいむら)を通り、八王子へ向かう道が当時の幹線道路とみられ、かつての幹線道路だった「鎌倉街道」上道は「古道」と認識されていた様子がみてとれます。
近世以後、江戸を中心とする街道が整備され、新たな宿場町が発達すると、「鎌倉街道」はかつての賑わいを失い、古道として扱われていきます。かつての幹線道路だった「鎌倉街道」は、「いにしえは鎌倉に向かう道だった」との伝承とともに地域の生活道路として存続し、現在では多くの地域に「鎌倉街道」伝承路がみられるようになったのです。
今回が学芸員ブログの最終回です。最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
近世以後、江戸を中心とする街道が整備され、新たな宿場町が発達すると、「鎌倉街道」はかつての賑わいを失い、古道として扱われていきます。かつての幹線道路だった「鎌倉街道」は、「いにしえは鎌倉に向かう道だった」との伝承とともに地域の生活道路として存続し、現在では多くの地域に「鎌倉街道」伝承路がみられるようになったのです。
今回が学芸員ブログの最終回です。最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
第5回 宿(しゅく)に住む職人の生業(なりわい)(R8.2.20)
鎌倉時代以降、武士の都の鎌倉と上州・信州を結んでいた「鎌倉街道」上道(かみつみち)(以下、上道)。上道が河川と交差する場所には宿(しゅく)と呼ばれた集落が発達し、人々の往来と物流の拠点となって賑わいました。
企画展では、上道と越辺川(おっぺがわ)の渡河点に栄えた苦林宿(にがばやししゅく)に関する資料を展示しています。宿の集落跡とみられる堂山下遺跡(毛呂山町)の出土品の数々は、苦林宿での人々の生活を彷彿とさせます。
出土品の一つに長さ12.8㎝の細長い棒状の鋼(はがね)製品があります。両先端は鋭く尖り、片方の先が約45度に折れ曲がっています。これは一体何でしょうか?
企画展では、上道と越辺川(おっぺがわ)の渡河点に栄えた苦林宿(にがばやししゅく)に関する資料を展示しています。宿の集落跡とみられる堂山下遺跡(毛呂山町)の出土品の数々は、苦林宿での人々の生活を彷彿とさせます。
出土品の一つに長さ12.8㎝の細長い棒状の鋼(はがね)製品があります。両先端は鋭く尖り、片方の先が約45度に折れ曲がっています。これは一体何でしょうか?
堂山下遺跡出土けがき針
現代のけがき針
これは「けがき針」と言って、板金加工職人が、金属などの材料を加工する際に、目印を付けるための道具です。片方の先端が曲がっているのは、内湾する面に印を付けやすくするためです。実は、このけがき針とまったく同じ形のものを、現代の板金加工職人が使っているのです。現代も使われている職人の道具と同じものが、鎌倉時代の集落跡から出土したことは驚きです。けがき針は、職人がこの集落にいたことを裏付けるものです。一体どんなものを作っていたのでしょうか。
堂山下遺跡と「鎌倉街道」上道(埼玉県教育委員会提供)
鎌倉時代の文書には、紀伊国(きいのくに)(和歌山県)熊野那智大社の先達(せんだつ)(参詣の仲介者)が苦林宿にいたことが記され、宿が宗教者の拠点になっていたこともうかがわれます。「鎌倉街道」沿いの宿の集落は、人の往来や物流だけでなく、手工業や文化が集まる場所であることがわかります。
第4回 おしゃれな鳥形硯(とりがたすずり)は誰のもの?(R8.2.19)
日高市王神(おうじん)遺跡・拾石(じゅっこく)遺跡は、小畦川(こあぜがわ)を臨む台地上に隣り合う遺跡です。両遺跡を東西に貫く道幅3~4mの道路遺構が発見されました。集落と集落を結ぶために人為的に構築した道路だったと考えられます。
また、両遺跡は高麗(こま)郡家の候補地の一つとされていて、これまでの発掘調査では明確な役所の建物跡は確認されていませんが、「厨」墨書土器や役人のベルトの装飾品など、郡家の存在を匂わすようなものが出土しています(拾石遺跡)。中でも特異な出土品が、王神遺跡の鳥形硯(とりがたけん・とりがたすずり)です。
また、両遺跡は高麗(こま)郡家の候補地の一つとされていて、これまでの発掘調査では明確な役所の建物跡は確認されていませんが、「厨」墨書土器や役人のベルトの装飾品など、郡家の存在を匂わすようなものが出土しています(拾石遺跡)。中でも特異な出土品が、王神遺跡の鳥形硯(とりがたけん・とりがたすずり)です。
日高市王神出土 鳥形硯(復元)
鳥形硯は、王神遺跡の奈良時代の住居跡から出土したもので、実物は鳥の羽根の部分のみ(灰色の須恵器質部分)ですが、他の出土例から全体が復元(茶色の部分)されています。羽根の部分は硯の蓋(ふた)となり、鳥の本体部分が硯になります。
奈良・平安時代の硯といえば円面硯(えんめんけん)(円形の硯に脚部が付くもの)や風字硯(ふうじけん)(四角く扁平な形のもの)が多く、動物などをかたどった硯はごく稀で、鳥形硯の出土例は全国でも20例に満たないと言われています。
奈良・平安時代の硯といえば円面硯(えんめんけん)(円形の硯に脚部が付くもの)や風字硯(ふうじけん)(四角く扁平な形のもの)が多く、動物などをかたどった硯はごく稀で、鳥形硯の出土例は全国でも20例に満たないと言われています。
鳥形硯出土遺跡(2019年 日高市埋蔵文化財調査報告書『王神』より転載)
出土地を見てみると、窯跡では長野県、愛知県、岡山県など関東以外の窯跡で生産されていたことがうかがえます。消費地としては平城京、興福寺、薬師寺(以上奈良県)、斎宮跡(さいぐうあと)(伊勢神宮に奉仕する斎王の御所)(三重県)などの都や斎王御所、寺院、武蔵国府跡(東京都)など古代の役所跡が挙げられます。当時の硯は役人が仕事に使う道具であったり、識字層の持ち物だったと思われますが、こうした希少性と出土地の傾向を考慮すると、この鳥形硯は誰もが使えるものではなく、ごく限られた身分の高い者が使用したと考えられます。この硯を携えてこの地域にやってきた人物とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。
第3回 ハラ君はカマド神の依代(よりしろ)か?(R8.2.10)
企画展では郡家につながる古代道路について、幡羅(はら)郡家の例を紹介しています。幡羅郡は、現在の熊谷市付近に設置された古代律令時代の郡(国の下のある行政単位)であり、深谷市と熊谷市にまたがる幡羅官衙(はらかんが)遺跡群が幡羅郡家跡とされています。
幡羅遺跡出土 人面線刻土製品
幡羅官衙遺跡群出土の人面線刻土製品。地元の深谷市では「ハラ君」と呼ばれて親しまれています(以下、ハラ君)。ハラ君は、役所の建物が集中する区域の中の住居跡から発見されました。白い粘土で焼かれた土製品で、住居のカマドで土器を下から支える支脚(しきゃく)の頭部と思われます。線で目、眉、鼻、口が描かれており、顔が表現されています。カマドの支脚は焚口に立てて土器を支えるため、2次的に被熱しているものが多いのですが、ハラ君は2次被熱を受けていない、つまりカマドの支脚として使われていないようです。
奈良・平安時代には土師器に目、眉、鼻、口を墨書きする「人面墨書土器」が、川や溝から出土する例があり、疫病神などを土器に封印して川などに流していたと考えられています。土器に顔を描くことで、神を憑依(ひょうい)させるという考え方が当時の人々にはあったのでしょう。ハラ君は、カマドの支脚に顔が描かれていることから、竈神(かまがみ・かまどがみ)の依代(よりしろ)と考えられます。竈神とは、奈良・平安時代に火を司る神、家の守り神として祭られた神です。
平安時代に編さんされた国の制度をまとめた法典である『延喜式(えんぎしき)』によると、宮中の内膳司(ないぜんし)や大炊寮(おおいりょう)(天皇や職位の高い貴族の食事・宴席を担当する機関)、貴族の邸宅などにおいて、竈神を祭っていたことが伝えられています。中央と同様に、地方の役所である郡家の厨房施設においても、同様の祭祀が行われていたと考えられます。ハラ君は、幡羅郡家の厨房施設で祭られた竈神だったのではないでしょうか。
奈良・平安時代には土師器に目、眉、鼻、口を墨書きする「人面墨書土器」が、川や溝から出土する例があり、疫病神などを土器に封印して川などに流していたと考えられています。土器に顔を描くことで、神を憑依(ひょうい)させるという考え方が当時の人々にはあったのでしょう。ハラ君は、カマドの支脚に顔が描かれていることから、竈神(かまがみ・かまどがみ)の依代(よりしろ)と考えられます。竈神とは、奈良・平安時代に火を司る神、家の守り神として祭られた神です。
平安時代に編さんされた国の制度をまとめた法典である『延喜式(えんぎしき)』によると、宮中の内膳司(ないぜんし)や大炊寮(おおいりょう)(天皇や職位の高い貴族の食事・宴席を担当する機関)、貴族の邸宅などにおいて、竈神を祭っていたことが伝えられています。中央と同様に、地方の役所である郡家の厨房施設においても、同様の祭祀が行われていたと考えられます。ハラ君は、幡羅郡家の厨房施設で祭られた竈神だったのではないでしょうか。
さて、幡羅官衙遺跡群では道幅約8mの道路遺構が直線的に延び、道の左右には、正倉院(穀物などを保管する倉庫群の区域)、実務官衙域(役所の建物が集まる区域)、「郡の寺」だったとみられる西別府廃寺(にしべっぷはいじ)などが位置しています。道路遺構は正倉院と接しながら、さらに河川跡を目指して延びており、幡羅郡家が河川の舟運と陸上交通を結ぶ物流の拠点だったことを物語っています。
第2回 器に墨書きされた「入厨」とは?(R8.2.5)
川越市霞ヶ関(かすみがせき)遺跡から出土した須恵器(すえき)の坏(つき)と埦(わん)。坏は底の外面に、埦の方は体部外面に「入厨(いりくりや?)」と墨書きされています。ここに書かれている「入厨」とは何を意味しているのでしょうか。これらの土器から見えてくることとは?
霞ヶ関遺跡出土「入厨」墨書土器
器に文字や記号、絵などが墨書きされている器は「墨書土器(ぼくしょどき)」と呼ばれ、奈良・平安時代の須恵器や土師器(はじき)に多く見られます。墨書きされた文字は、地名や人名、組織に関する漢字が書かれていると考えられ、その器の所有者や用途を推定でき、ひいては出土した遺跡の性格についても考えることができます。
さて、問題の「入厨」ですが、このうちの「厨」については、郡家(ぐうけ)(国の下にある郡の役所)の中の施設である「厨家」(くりや)を意味していると考えられます。
平安時代に上野国(こうずけのくに)(現在の群馬県)で国司が交替する際に国の財政状況を引き継いだ文書とされる『上野国交替実録帳』には、「正倉」(しょうそう)(穀物を保管する倉庫)「郡庁」(ぐんちょう)(役人が実務を行う場所)「館」(たち)(役人の宿泊施設)「厨家」(郡家全体の食事を提供する施設)の4つの施設が郡家にあったことを伝えています。
「入厨」の「入」は周辺遺跡で出土した墨書土器に「入間」があることから古代の入間郡を示すものと思われます。つまり「入厨」墨書土器は「入間郡(家)の厨家」を意味し、入間郡家の厨房施設「厨家」で使われていた食器だったと考えられます。
「入厨」墨書土器2点が出土した霞ヶ関遺跡7~9次調査では、郡家の建物の可能性のある大型の掘立柱建物跡、柵列、区画溝などが確認されました。これらの遺構群と墨書土器の存在から、霞ヶ関遺跡は古代入間郡家の所在地と考えられています。
さて、問題の「入厨」ですが、このうちの「厨」については、郡家(ぐうけ)(国の下にある郡の役所)の中の施設である「厨家」(くりや)を意味していると考えられます。
平安時代に上野国(こうずけのくに)(現在の群馬県)で国司が交替する際に国の財政状況を引き継いだ文書とされる『上野国交替実録帳』には、「正倉」(しょうそう)(穀物を保管する倉庫)「郡庁」(ぐんちょう)(役人が実務を行う場所)「館」(たち)(役人の宿泊施設)「厨家」(郡家全体の食事を提供する施設)の4つの施設が郡家にあったことを伝えています。
「入厨」の「入」は周辺遺跡で出土した墨書土器に「入間」があることから古代の入間郡を示すものと思われます。つまり「入厨」墨書土器は「入間郡(家)の厨家」を意味し、入間郡家の厨房施設「厨家」で使われていた食器だったと考えられます。
「入厨」墨書土器2点が出土した霞ヶ関遺跡7~9次調査では、郡家の建物の可能性のある大型の掘立柱建物跡、柵列、区画溝などが確認されました。これらの遺構群と墨書土器の存在から、霞ヶ関遺跡は古代入間郡家の所在地と考えられています。
霞ヶ関遺跡7~9次調査区(川越市教育委員会提供)
企画展ではこれまでに東京都・埼玉県で発見された東山道とみられる道路遺構の発掘からわかった推定ルート図(「東山道武蔵路」に相当)を掲出しています。東山道は、入間郡家とされる霞ヶ関遺跡の西側を南北に通るとみられます。東山道は国府と国府を直線的に結ぶ官道(律令国家が整備した幹線道路)であると同時に、武蔵国では入間郡を南北に貫き、入間郡家につながる道路でもあったのです。
第1回 今回の企画展は「道路」です。(R8.1.27)
みなさんこんにちは。これから、企画展 東山道と「鎌倉街道」の学芸員ブログをはじめます。企画展の開催期間中、できるだけ定期的に書いていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
さて、第1回目は、今回の企画展の全体像について触れたいと思います。今回の企画展は、古代の道である東山道と、中世からの道である「鎌倉街道」をテーマにしています。「鎌倉街道」上道は、昭和56・57年度の埼玉県教育委員会による「歴史の道事業 鎌倉街道上道調査」によって、埼玉県内の調査が行われ、上道伝承路と周辺に点在する文化財の把握が行われ、これを起点にその後の発掘調査や研究が進んできました。また、古代においても東山道とみられる道路遺構の発見やその他古代道路の調査が行われ、道路の規模や構造、東山道のルートについての解明が進みました。今回の企画展は、それらの調査研究の成果を取り入れた展示を目指しました。
さて、第1回目は、今回の企画展の全体像について触れたいと思います。今回の企画展は、古代の道である東山道と、中世からの道である「鎌倉街道」をテーマにしています。「鎌倉街道」上道は、昭和56・57年度の埼玉県教育委員会による「歴史の道事業 鎌倉街道上道調査」によって、埼玉県内の調査が行われ、上道伝承路と周辺に点在する文化財の把握が行われ、これを起点にその後の発掘調査や研究が進んできました。また、古代においても東山道とみられる道路遺構の発見やその他古代道路の調査が行われ、道路の規模や構造、東山道のルートについての解明が進みました。今回の企画展は、それらの調査研究の成果を取り入れた展示を目指しました。
東京・埼玉を通る東山道の推定ルート
上画像をクリックすると画像データをダウンロードできます。(PDF:1.5MB)
寺院や館跡などの古代・中世の遺跡に比べると、道路遺構そのものは、地味でシンプルなものかもしれません。しかし大切なのは道の左右に目を向けることです。各時代の道路と寺院や城、道沿いの集落との関係を明らかにすることで、それぞれの遺跡への理解はより深まり、地域の歴史が多面的に浮かび上がります。企画展では、古代の役所、武士の館、街道沿いの集落などを取り上げて、各時代の道路の役割や、道路から見える地域の姿を探ります。この企画展を通じて、これまで見てきた地域の歴史に新たな視点が加わればよいかと思います。
さて、次回からは、企画展の展示資料を紹介しながらお話を進めたいと思います。お楽しみに!
さて、次回からは、企画展の展示資料を紹介しながらお話を進めたいと思います。お楽しみに!