1 菅谷館跡の位置と歴史

 菅谷館跡は、埼玉県のほぼ中央、比企郡嵐山町大字菅谷(字城)757番地にあり、約13万平方メートル(東京ドーム約3個分)に及ぶ広大な面積を持つ複郭式の平城です。館跡は、東武東上線の武蔵嵐山(むさしらんざん)駅から南西方向約1キロメートルほどの台地上に築かれています。館跡のある台地の南側は、都幾川の流れにより浸食されて切り立った崖となり、東側と西側には、台地に直行する谷が幾筋も形成されており、館跡は、これらの地形を巧みに利用して、複雑な縄張りを構成しています。

 

 館跡の歴史に目を向けると、縄文・弥生時代にはじまり、古墳時代、奈良、平安、および鎌倉・室町・戦国の各時代に至るまで、数多くの遺跡群が複合、点在してみることができます。また、これらの遺跡群の中を古代から中世にかけて上野国と武蔵国を結ぶ古道、通称「鎌倉街道」が残されています。この街道は国分寺瓦や須恵器などを運んだ道として、あるいは、武蔵武士たちが往来した道として利用されてきました。

 

 街道に沿う地域には、平安時代から戦国時代にかけての寺院や中世寺院跡、板碑(板石塔婆)、城館跡、古戦場などさまざまの史跡や文化財が集中しており、中世において、多くのできごとが菅谷館跡を中心にして展開されてきたことをうかがい知ることができます。

 

 なかでも城館跡は松山城、鉢形城をはじめとして30余もの城館跡が築かれている密集地帯です。これらの城館跡の歴史を見てみると、おおよそ4つの時期に分けることができます。第1期は、畠山重忠などの武蔵武士達が活躍した平安時代から鎌倉時代にかけての時期で、大蔵館、畠山館、菅谷館などが築かれました。第2期は、足利基氏などが精力的に活動した南北朝時代の頃で、足利基氏館などが築かれました。第3期は、管領上杉氏が内部争いした1500年頃で、この時代にほとんどの城が築かれたと考えられます。第4期は、後北条氏が支配した戦国時代の終り頃で、この時代には城のほとんどが増改築されたようです。その後、秀吉の後北条氏攻め(小田原攻め)により戦国時代は終わり、城郭は順次取り壊されていったと思われます。