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常設展の一部スペースについて、テーマを設けて展示をしています。
スポット展「菅谷館跡国史跡指定50周年展」
会期:令和5年8月29日(火)から令和6年1月7日(日)まで
当館が建つ国指定史跡 比企城館跡群 菅谷館跡は、鎌倉時代の武将・畠山重忠の館が築かれた場所と伝えられ、後の戦国時代には城郭として発展しました。
今年は、菅谷館跡が県史跡に指定されてから100周年、国史跡に指定されてから50周年となります。
当館は、前身である埼玉県立歴史資料館が昭和51年4月に開館して以来、史跡菅谷館跡の保存管理と活用を、使命のひとつとして担って参りました。
今回のスポット展では、菅谷館跡が国史跡に指定され、歴史資料館の建設と史跡の保存と活用に向けた本格的な環境整備が始まった昭和50年代前半の動きを紹介し、今日にいたる50年の道のりを振り返ります。
また菅谷館跡の歴史を明らかにする上で重要な手掛かりとなる、館跡内で発掘・採集された年号が刻まれた板碑を常設展示中の2点と合せてすべて出品いたしました。
スポット展「近現代の菅谷館跡」
会期:令和5年1月31日(火)~ 6月11日(日)まで 終了しました
嵐山史跡の博物館が建つ国指定史跡「比企城館跡群 菅谷館跡」は、鎌倉幕府の御家人・畠山重忠の館跡との伝承があり、戦国時代には城郭として発展した史跡です。菅谷館跡は、大正12年に県指定史跡となったのち、昭和47年に菅谷館跡単独で国指定史跡となります。その後、平成18年に杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町)、松山城跡(吉見町)を合わせた「比企城館跡群」に指定名称が変更され、現在に至ります。
「武士の鑑」ともいわれた畠山重忠の館跡として、景勝地である嵐山渓谷近くの旧跡として、菅谷館跡はさまざまな視点からの注目を集める場所でした。そうした菅谷館跡へのまなざしは、絵葉書や二ノ郭土塁に建つ重忠公像などからうかがうことができます。また、博物館や道路の建設などに伴い5回の発掘調査が行われ、出土遺物は当館で大切に保管されています。
明治~昭和の公図や古写真、出土遺物などから、菅谷館跡の近現代を紹介します。
会期:令和4年1月18日(火)~9月23日(金・祝)まで 終了しました
鎌倉時代は、源頼朝によって初めて東日本を基盤とする武家政権が成立した時代です。鎌倉時代初期には畠山重忠や比企能員など北武蔵地域を本拠とした鎌倉武士たちが平氏追討や奥州征伐で活躍し、頼朝の武家政権成立に大きく貢献しました。
埼玉県内には鎌倉武士の館跡や、鎌倉武士ゆかりの寺院・遺跡が多く所在しており、鎌倉武士の館やその周辺遺跡の発掘調査では、武士に関わる遺構や遺物が出土しています。これらの出土品を展示するとともに、畠山重忠・比企能員などのゆかりの地を写真パネルで紹介します。
展示資料点数:54点(出土資料39点、写真パネル15点) |
展示資料紹介(一部) | |
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熊谷市 下田町遺跡出土 かわらけ |
深谷市 畠山館跡(写真パネル) |
かわらけは素焼きの器です。儀礼や宴会の場で、酒杯や食べ物を盛る器として用いられたと考えられています。他の陶磁器類とちがい、使用後は基本的に再利用はされず、使い捨てにされるのが特徴です。制作技法から、ロクロで挽いた「ロクロかわらけ」と粘土を手で成形した「てづくねかわらけ」とに分けられます。下田町遺跡からはこうしたかわらけ類が多数出土しています。 ※ 折敷と箸は模造品です。 |
畠山重忠の父、重能の館跡と推定されている場所です。現在は畠山重忠公史跡公園になっています。敷地内には、重忠とその家臣の墓と言われている五輪塔や、重忠公産湯の井戸のほか、一の谷の戦いにおける「鵯越の逆落とし」の際に、愛馬を背負って崖を下った逸話にちなんだ銅像などがあります。 |
令和2年2月21日(金)~ English / 한국어 / 简体中文 / 繁体中文 終了しました
中世の遺跡からの出土品には、私たちが現在使っている生活道具と似ているものが多くあります。食物を盛る碗や皿、煮炊きに使う鍋や釜、摺(す)る時に使う摺鉢(すりばち)、水や穀物を貯蔵する壺・甕などで、一目でこれは何に使うやきものか容易に想像できます。
使われているものは、地元で生産された土器(在地産土器・ざいちさんどき)の他に、平安時代の終わり頃から生産が始まった、瀬戸、常滑などの窯業地のやきもの(陶器)です。窯で焼かれ硬く焼き締められた陶器は、丈夫で耐久性が高く、壺・甕は多目的な貯蔵具として、摺鉢は万能な調理具として、日常生活の中に取り入れられ、全国各地に普及しました。これに青磁(せいじ)・白磁(はくじ)といった中国からの輸入陶磁器を含めた広域流通品と、地元製品を併用し、都市や農村などさまざまな社会・生活形態に則した組合せで食生活の道具が構成されています。
いつの時代でも食事は生活の中心であり、そこには食卓を彩る食器類や、便利な調理具があります。その原形とも言える中世のやきものを紹介します。
かわらけ 室町時代・15世紀末 口径10.4〜11.7㎝ 在地産片口鉢 室町時代・15世紀前半 口径30.2㎝
在地産焙烙 室町時代・15世紀後半 口径35.4㎝・高さ6.3㎝ 在地産土釜 室町時代・15世紀後半 口径13.6㎝・高さ28.3㎝
常滑大甕 鎌倉時代・13世紀中頃
口径44.5㎝・底径19.2㎝・高さ70.1㎝
平成31年2月22日(金)~10月20日(日) 終了しました
焼きものの材料に恵まれた日本列島では、すでに16,000年前頃に土器が焼かれていました。その後の中国や朝鮮半島との交流により、古墳時代には、還元焼成の焼締めの器「須恵器」を生み出しました。奈良時代には灰釉陶器や低温の鉛釉の三彩の生産がはじまり、焼きものは釉薬を用いた華やかな色の時代に辿り着いきます。灰釉陶器は、その後、主に瀬戸・美濃地方で生産され、陶器の中心を占めていきました。
13~14世紀になると、中国から鉄釉の技術が伝わり、戦国時代には、茶の湯とともに茶陶の文化が花開きました。瀬戸・美濃地域では鉄を発色剤に薄黄色い黄瀬戸、オリーブ色の灰釉、褐色や黒の鉄釉の陶器が作られ、豊臣秀吉が政権をとった桃山時代になると、独創的な造形と黒・赤・白・緑を大胆に用いた「楽」「志野」「織部」などの桃山陶が生み出されました。革命ともいわれる桃山陶だが、自然の材料を用いた伝統的な技術で、調和的で奥深い日本の焼きものの特徴を備えています。
このコーナーでは、自然の材料から様々な色を生み出す、中世の焼きものの技術を紹介します。
平成30年2月23日(金)~10月21日(日) 終了しました
板碑石材の採掘遺跡などからの出土資料をとおして、板碑の製作工程を紹介します。
平成29年2月24日(金)~8月20日(日) 終了しました
発掘調査によって発見された鋳物師の遺跡を紹介しています。
紹介する遺跡は、金平遺跡(嵐山町)、深沢遺跡(嵐山町)、金井遺跡B区(坂戸市)です。いずれも仏具や生活用品などを鋳造していた、大変興味深い遺跡です。